長期業績レポート
メモ
直島訪問の思い出
私は「三菱マテリアル」と聞くと、直島を思い出します。安藤忠雄設計の地中美術館を見学に出かけましたが、何故か三菱マテリアルに勤めるおじさんと仲良くなり、直島精錬所を案内して頂きました。勝手に精錬所の中を歩き回ってたから、かなり偉い方だったのかもしれません。驚いたのは地中美術館のある美しい島の南側とは違い、精錬所のある北側は禿山になっていたことです。精錬所で鉱石を溶練する際に発生する亜硫酸ガスが原因だそうです。大正9年(1920)創業ですから、当時は環境基準も脱硫装置もなく駄々漏れ状態だったのでしょう。
精錬所受入の経緯について、Wikipediaからの抜粋です。
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前近代的な産業基盤のまま明治中期から人口が増加した直島村では次第に経済が停滞し、都市へ向けて人口が流出し始めるが、そのような直島にも近代化の波が押し寄せる。1916年(大正5年)、農漁業の不振で財政難に陥った村は三菱合資会社の打診した銅製錬所を受け入れる決断を行う[4]。銅の製錬の際に出る亜硫酸ガスは、足尾銅山や別子銅山など各地で、山の木々をすべて枯らし下流で水害を起こすなどの煙害を起こしており、瀬戸内海の犬島、四阪島、契島などの離島に各社の精錬所が移されつつあった。三菱も煙害の心配の少ない離島を探したが、農業や石材業などを抱える豊島は断り、農漁業が零細な直島は三菱の打診に最後の望みを託した。翌1917年(大正6年)、島の北端で三菱合資会社の中央製錬所が操業を開始すると、直島は三菱金属鉱業の企業城下町として急速に発展し、働き口が確保されたことによる人口流出の歯止めや豊富な税収によって、瀬戸内の離島においてだけでなく香川県内でも有数の裕福な自治体となっている。一方で、島の北半分および周囲の島々の木々がほとんど枯れるという煙害に悩んだ。(中略)
三菱金属鉱業は1967年に新製錬所の建設の方針を打ち出し、小名浜と直島を候補地とした。条件的に不利であった直島から製錬事業を流出させないため、直島町、香川県、直島製錬所労働組合などが本社に陳情を行った結果、直島製錬所を近代化することに決まり、1969年に新製錬所が稼動した[5]。しかし、この頃を境に金属製錬事業の高度化と平行して合理化が進み、以来従業員数や島の人口は減少し続けている。また銅の国際価格の低迷から製錬事業そのものが低迷し、直島製錬所はリサイクル事業など、金属製錬以外の新規事業開拓を迫られていた。
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財政難や人口流出に直面した自治体が、長期的なリスクを知りながらも「背に腹は代えられない」と誰も欲しくはないお荷物資産を受け入れてしまうという構図は、鉱山や精錬所、原子力発電所と同じようです。直島では植林などの対策をとっているそうですが、衛星写真からも後遺症が100年後も続いていることをまざまざと見せつけられます。私にとっては、日本の産業史の負の一面を思い出させてくれる経験です。
Happy Investing!!
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